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全563件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 

神戸区

 投稿者:ezekiel  投稿日:2009年11月29日(日)11時09分51秒
   山田村、垂水村(西垂水村と東垂水村)に続いて、現在の神戸駅周辺となる、兵庫の町、相生町、二つ茶屋村、走水村、荒田村あたりの地図です。神戸区と荒田村の表記がありますから、神戸区が八部郡荒田村と莵原郡葺合村を併合して市制を施行した明治22年以前の地図となります。兵庫駅の開設が明治21年で、この地図には表示がありませんから明治20年以前ということになります。

 (あ)が大阪ー神戸間に開通した頃の旧神戸駅です。明治23年には兵庫駅と湊川の地下をトンネルでつないで、明石ー兵庫駅間に開通していた山陽鉄道と接続し、駅の位置が変更になります。後に貨物の湊川駅となり、現在の神戸ハーラーランドが、この当時の神戸駅です。(い)が旧湊川です。現在の新湊川への付け替えが明治34年になります。旧湊川の河口が川崎です。

 (う)が「神戸区」の表記です。明治元年に 八部郡神戸村・二茶屋村・走水村の3村が合併して神戸町となり、明治12年には八部郡神戸町・兵庫町・坂本村が合併して神戸区になります。神戸区が八部郡荒田村と菟原郡葺合村を合併して市制を施行して神戸市になるのが明治22年になります。この地図には(え)で兵庫の地名が大きく表示されていますので、まだこの地図の時代には兵庫の町名の存在感が大きかったと思います。

 (お)が西国街道です。現在の国道2号線は兵庫の町をかするようになっていますが、この当時は宿場町だった兵庫の町を通っています。(か)が荒田村、(き)が湊川神社です。そして(く)が、現在の神戸駅の場所です。そして(け)が兵庫駅が開設される場所です。兵庫の町から離れた二本松と呼ばれていた場所に兵庫の町の名を冠した駅が出来ることになります。

 (こ)が、湊川の付け替えで、この地図の時代の後に新しくできた湊川の町の場所です。この下流に新開地の町も・・・。(さ)の道が、現在の国道28号線です。(し)が会下山、そして(す)が大倉山です。この地図には顕れませんが、三ノ宮駅が、三ノ宮神社の北、ほぼ現在の元町駅辺りになり、現在の三ノ宮駅周辺は、ほぼ田畑が広がっていました。
 

古き垂水・舞子

 投稿者:迷老羊  投稿日:2009年11月28日(土)12時52分56秒
   ezekielさま。お初です。迷鶏と申します。
 このBROGで、貴方の投稿と写真を拝見しました。
古き垂水・舞子(山田?)の史実を拝読し感服しました。凄い!!と感動しました。
 私は垂水{高丸8(陸9)・西舞子9(狩口台?)に住んで40年になります。
(長生きしたなぁ〜)
今は、只何となく良き古きを探してカメラと画帳を持ち、
健康維持のためお天気の日には、近辺方々を散策しています。
 さて、掲載されている地図を私も見てみたいと思います。
どこへ行けば閲覧できますでしょうか。
明石県立図書館?明石市立図書館?垂水神戸市立図書館?大倉山県立図書館?
 是非とも私も観て見たい。差し支えなくば教えて下さい。
 不躾の問い合わせ御免ください。
 

西垂水村と東垂水村

 投稿者:ezekiel  投稿日:2009年11月23日(月)11時58分26秒
   山田村に続いて、西垂水村と東垂水村近辺です。塩屋、下畑、東垂水、西垂水、名谷の各村が合併して垂水村となったのが明治22年ですから、それ以前になり、鉄道の記載がないので明治20年頃の地図ではないかと思います。

 (あ)が海神社です。海神社を境に西側が西垂水村、東側が東垂水村です。この秋の海神社の秋祭の時も、海神社を境に、道路沿いの幟が西垂水と東垂水に分かれていました。(い)には「字新田」と書かれ、万治2年(1659年)から延宝7年(1679年)まで明石城主だった松平信之が拓いた新田で、現在の住居表示が霞ヶ丘や五色山になります。松平信之が日向守だったことから福田川の右岸には日向という住居標示が今も残っています。

 (う)は天神川で、現在の商大筋に相当します。そして(え)が、垂水から転法輪寺を経て奥畑経由で国境の鉢伏山の北を迂回して摂津の須磨に至る脇街道になります。現在の県道488号線に相当します。この地図の当時は西国街道とは、現在の県道200号(垂水停車場線)から北上してから現・山陽垂水駅、天の下郵便局辺りを経て現・カトリック教会の北辺りで現在の県道488号線に合流しています。現在の県道488号線は、垂水駅東口の南(旧垂水区役所のあった交差点)から垂水小学校の西を通って、旧・山陽バスの垂水駅前の乗降口があった処を経て現・カトリック教会の北辺りで現在の県道488号線に合流しています。(現在は福田川河口からの県道488号線のバイパスのような道が出来ています。)

 (お)が瑞ヶ丘八幡神社、(か)が垂水小学校や徳洲会病院の辺り、そして(き)が、この後に垂水村の村長となった田口政五郎が誘致した県立神戸高商(後の商大)が建設される処です。この田口村長の時代に、明石郡垂水村が明石市ではなくて神戸市に編入するような方向性になったようです。

 (く)が当時の滝の茶屋の集落だったようで「字平尾」と書かれています。そして(け)が福田川(この地図の当時はまだ垂水川と呼ばれていたようです)に架かる現在の水道橋辺りです。現在はこの水道橋辺りから東に大きく迂回するように川の付け替えが行なわれ、この当時の川筋に、現在のバス道がオーバーラプする部分があります。(こ)が五色塚古墳です。

鉄道が、西垂水村と東垂水村の北側を通り、港や海神社という村の中心近くに駅が出来たのは、山田村と大きく異なります。駅の北にも集落が広がり、その後、駅を中心に垂水村の集落は広がったようです。現在の高丸、旭ヶ丘、星が丘、星陵台一帯が、垂水村の北側に広がる「高丸陸」と呼ばれていたことが、この地図からよくわかります。

 p.s.  (け)が2つありました。西国街道沿い、福田川河口の東の(け)は、現在の山陽電車東垂水駅に相当します。
 

赤線に略平行の川

 投稿者:モハ830  投稿日:2009年11月22日(日)09時32分22秒
編集済
  赤い線に略併行の川が通称「東川」と呼ばれていた川でしょうか?
山陽本線が複線時代に踏み切りがあつて、その舞子駅よりの川では??

「い」と「く」の間の田圃の辺りが「金作」(かなつくり)でしょうか?
 

山田村と舞子海岸

 投稿者:ezekiel  投稿日:2009年11月15日(日)14時03分59秒
   先日、図書館で明治期の古い地図を探しました。明治20年から明治30年頃の神戸近隣の地図を集めた資料集がありました。写真1が、山田村近辺です。「山田村」と記載されているので明治22年以前となり、鉄道の記載がなく、西国街道のみが海岸線に沿って記載されているので、明治20年頃の地図ではないかと思います。範囲は、左端が山田川の西、くら寿司とライオンズマンションのある辺り。右端が烏崎の丘陵で、今の舞子ビラ辺り。北が大歳山遺跡のちょっと北で、ちょうど青松飯店辺り・・・の範囲の地図です。

 写真2はマーキングをした地図です。(原寸大527*632にしないと字が見にくいと思います。)

 (あ)の青い線が、山田村と多聞村をつなぐ道で、西国街道から多聞寺への参道でもあり、須磨から国境の鉢伏山の北を迂回する脇街道が西国街道に合流する処でもあったようです。現在の西舞子の駅前商店街とオーバーラップします。 (い)の青い線の細い道が現在の舞子のバス道・県道487号になります。池は・・・、旧神戸高専のグラウンドになるのでしょうか?

 (う)は、山田村の集落ですが、鉄道が開通して、国道の拡張工事や複々線化で、元々の山田村の集落の中心地はほぼ線路や道路で寸断されてしまっています。集落の中心近くに出来た現在の西舞子駅の北に新しい山田村の集落が移転して、今の西舞子商店街がそのメーン‐ストリートになったのでしょうか? (え)が現在の舞子小学校、その北に大歳山遺跡、山田川の湾曲は現在もそのままです。 (お)が舞子台8丁目の交差点、大連のラーメン屋さんやダイエーがある辺りです。

 (か)が、現在のJR舞子駅、その東に、舞子公園の松林が、その当時も広がっていたのでしょうか? (き)が海に突き出した烏崎、嘉吉の乱で 戦場となった烏崎城があった高台で、現在の舞子ビラです。 (く)が旧日下部邸で、現在の舞子ホテルです。

 海神社を中心に、西垂水村と東垂水村の古い集落が、そのまま今の垂水の町並の中心になっているのに対して、山田村の古い集落の中心が、今は道路や線路の下になってしまっています。昔の山田村は、山田川を挟んで西側にも広がり、くら寿司とライオンズマンションのある辺り(狩口台7丁目)の海岸沿いにも地図上では集落が続いていたようです。

 ここ何年か山田村に関する古い資料に目を通していると、観光地・舞子海岸にスポットが当てられたのに対して、元々の山田村が相対的に位置が低下して、山田村の中心地が道路や線路で寸断されて・・・そんな歴史の流れが顕れてくるように感じます。「神戸市の視点」や「垂水区の視点」或いは「明石の視点」からの『山田村・舞子海岸の歴史』はありますが、山田村から見たものって、まだお目にかかっていません。
 

木下住宅(旧又野邸)

 投稿者:こう  投稿日:2009年11月 7日(土)23時05分10秒
  行ってまいりました。
受付におられたきれいなお嬢さんがいろいろ説明してくれ、充実した観覧となりました。
なんでも、台所はシステムキッチンが入れられていたのを神戸大学の先生の指導で建築当時の台所に復元できたそうです。

写真は上から外観。
洋室。
茶室です。

案内してくださったお嬢さんは「建てられた又野さんと言う方は、とてもおしゃれで粋な方だったのですね」と感慨深く語っておられました。

http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/

 

見に行かなきゃぁ

 投稿者:こう  投稿日:2009年11月 2日(月)20時18分38秒
  と思うのですが、なかなか時間が取れません。
さて、今度は東舞子にあって、狩口台に移転していた武藤邸がかつて舞子タワーのあった場所辺りに再移転の工事が進んでいます。

舞子ホテル、舞子ビラ庭園、移情郭(六角堂)とあわせ、名建築のメッカになって行くような感じがしますね。

http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/

 

旧又野邸公開

 投稿者:モハ830  投稿日:2009年10月24日(土)19時43分15秒
  いよいよですか長かったですね。
機会があれば是非拝観に行きたいと思います。
 

Re:木下家住宅(又野邸)公開へ

 投稿者:伸さん  投稿日:2009年10月23日(金)16時28分37秒
  いよいよ公開ですか。

木下住宅が建っているのは、舞子公園でも西地区と呼ばれる所、

舞子駅の北側の若宮神社が有る所です。

舞子公園というと駅の南側と言うイメージを持っている方が多いと思います。

間違えないでくださいね。!
 

木下家住宅(又野邸)公開へ

 投稿者:こう  投稿日:2009年10月23日(金)15時46分56秒
編集済
  神戸新聞ウェブサイトhttp://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002460762.shtmlより

 国の登録文化財「旧木下家住宅」(神戸市垂水区の舞子公園内)の保存修復工事が完成し、24日から一般公開される。

 同住宅は1939年ごろに建てられた近代和風建築。約2300平方メートルの敷地に、母屋のほか、土蔵、納屋などが残る。所有者が2000年9月に土地と建物を県に寄付。06年12月から神戸大学などの監修で修復が進められていた。

 公開は午前10〜午後5時(24日は午後1〜4時)。月、火曜休館。無料。24日は記念式典があるほか、午後1時と同2時15分に、監修にあたった足立裕司・神戸大学大学院教授による記念講演と見学会がある。

***********


時間をかけて修復された、この掲示板でも話題だった舞子駅東側、木下家住宅(又野邸)が公開されることになりました。
舞子の新しい名所として広く知られて欲しいなと思っています。

http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/

 

秋祭り

 投稿者:伸さん  投稿日:2009年10月 5日(月)07時26分32秒
  やっぱり多聞寺でしたか、ところで舞子六神社の秋祭りは、10日が宵宮で、11日が本宮ですね。
今年は、宵宮もふとん太鼓が出るみたいです。晩に六神社から橋の科学館前まで行くそうです。
 

村からの移り変りを小学校で。

 投稿者:モハ830  投稿日:2009年 9月23日(水)10時36分37秒
  伸さんのご意見に賛成です。「垂水四季詩情」(図書館にあるでしょうし垂水区内の
学校にもあるかと)---が一番詳しいでしょう。
私が住んでいる市の歴史史料館にもありましたので、山陽鉄道関係などを調べるのに
便利でした。
舞子小学校も(山田時代)山陽鉄道の線路近くにあって、複線化などで現在の郵便局
の場所へ移転したとの事を始めて知りました。(郵便局は校門左側にあった藤棚の
近くの位置)私が通学していた時代は郵便局が六神社付近の濱側にありました。
 

舞子のお寺

 投稿者:こう  投稿日:2009年 9月22日(火)07時58分7秒
  西舞子商店街はかつての多聞寺への参詣道路だったと聞いたことがあります。
天台宗は多聞寺、真言宗はそのさきの転法輪寺・・というのが昔の人にとってメジャーな存在だったのかもしれませんね。

どちらも広大な寺院で、門前町もあったようですし。

http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/

 

JRは舞子のままの方が--

 投稿者:モハ830  投稿日:2009年 9月15日(火)11時53分23秒
  元舞子の住人の立場からの意見ですが、矢張り「舞子」の方が有名でもあり,そのままの
方が良い様に思います。山陽鉄道時代からの歴史もありますし---
 

皆さんありがとうございます。

 投稿者:伸さん  投稿日:2009年 9月15日(火)11時28分34秒
  この機会に小学校等で村からの移り変わりについて教えてもいいのかと思いますが?
JR舞子駅も変更するなら「パールブリッジ」とかいいかも?
ところで、舞子の氏神さまは舞子六神社ですが、お寺は、東光庵なのでしょうか?多門寺?
舞子地区の古いお寺って少ないですよね?
 

山田村と舞子ヶ浜

 投稿者:ezekiel  投稿日:2009年 9月12日(土)10時42分10秒
   舞子・・・、明石海峡を真正面に眺める海浜に潮風で傾いて生える磯馴松(いそなれまつ)の姿が、舞妓が華麗に舞う姿に似ていることから呼び使われるようになったようですが、広く知られるようになったのは17世紀以降のようです。地名というよりも明石郡垂水郷の山田村近くの松林が続く海岸の呼称としての「舞子ヶ浜」であったようです。

 明治以降には神戸港が貿易港となって街が発展して、塩屋海岸を望む高台に外国人の別荘が建てられるようになり、そして明石郡の舞子ヶ浜は、神戸近隣の風光明媚な保養地のような存在となり明治27年に烏崎城跡に有栖川宮の別荘が建てられました。

 明治22年の市制町村制で明石郡垂水郷の大部分が垂水村となったのですが、村名に関しては舞子村という案もあったそうで、古来からの垂水郷よりも、名勝地として名高かった舞子を村名に推す意見も強かったようです。結局、垂水郷という古来からの地名を村名にするかわりに、旧西垂水村(現宮本町辺り)ではなくて山田村に村役場を設けて村長も山田村から選び、前年(明治21年)に開通した山陽鉄道が、明石郡垂水郷では唯一、旧西垂水村(現宮本町辺り)に「垂水駅」を開業していたのを、1年で舞子駅と改称するなどの旧村間での政治的な取引があって垂水村が発足したようです。

 明治29年に開業した現JR舞子駅は「旧・山田村の駅」としてではなくて「舞子ヶ浜の駅」としての「舞子公園」であり、明治33年に兵庫県は、この景勝の地を県立舞子公園に指定しました。その後、舞子には日下部邸(現舞子ホテル)や牛尾邸のような豪邸も建てられ、海岸には料理旅館が並ぶようになり・・・



 大正6年に開業した 兵庫電気軌道(現山陽電車)西舞子駅は、開業当時は「山田駅」でした。まさに旧・山田村の玄関口となる駅でした。そして現舞子公園駅は「舞子駅」として開業しました。

 今の西舞子町辺りは旧山田村であり、そして舞子という現在の地名は、元々は海岸の名前であり、明治中期から大正期頃の感覚では、現JR舞子駅辺りの海岸を指し示していたようです。当時の山田村にお住まいだった方々にとっては、自分たちの住んでいるのは山田であって、舞子ヶ浜は山田村の東に広がる海岸で、自分たちの住んでいる山田とは違う新しい観光地のようなニュアンスをお持ちだったのではないかと思います。そして神戸をはじめ周辺の方々も有名となった地名の「舞子」と言えば舞子公園の辺りの海岸や観光地であり、旧山田村周辺の町を「舞子」とは捉えていなかったようです。

 「舞子」が有名になったのに対して旧村名である「山田」は求心力を失ってしまって、その後舞子という名前が地名となって「東舞子町」と「西舞子町」が誕生。現在東舞子町は、住居表示に変わって、JR舞子駅の東に一部残るだけになってしまったのに対して、西舞子町は、住居表示としても「西舞子×丁目」として広く使われています。



 須磨も、海岸、景勝地が由来の地名で、JR須磨駅は須磨の町の中心というよりも観光地の駅という感じで、今も須磨駅前には求心力のある商店街は形成されぬまま・・・。

 灘・・・本来の灘五郷の中心である中郷は御影辺りですが、後から神戸市に編入したために灘区ではなくて「東灘区」、そして西灘と呼ばれていた地域が「灘区」になっています。古くからある灘中学校や灘高校は東灘区になり、東灘高校は昭和46年に開校した東灘区の新しい学校です。西灘小学校は古くからある灘区の小学校で、灘小学校は昭和45年に開校した灘区の小学校。元々は西灘と呼ばれていた一帯が現在は灘区になって、元々の灘の中心地が東灘区になっています。

 舞子のお隣の垂水も、明治22年の市制町村制以前は西垂水村と東垂水村の2つの旧村でした。その後垂水区となって西垂水町と東垂水町の地名が誕生しますが、西垂水町は住居表示に変わってしまってほぼ壊滅的(一部残っているようです)なのに対して東垂水町は住居表示(東垂水×丁目)として残っています。もちろん垂水町という地名はありませんし、住居表示にもありません。

 ・・・地名の変遷を辿ると、歴史の流れ、その時々にその地で暮らす方々の生活が窺い知れたり、政治的な香りが漂ってきたりで、良くも悪くも歴史が刻まれているなあ〜と思います。
 

西舞子は舞子

 投稿者:こう  投稿日:2009年 9月11日(金)17時08分21秒
編集済
  西舞子商店街の中にある交番は「舞子交番」、郵便局は「舞子郵便局」、小学校は「舞子小学校」
でも、奥の池・・狩口台3丁目にある小学校は「西舞子小学校」、中学校は「舞子中学」・・
JR舞子駅は東舞子町にあり、「舞子」と言う町名は存在しません。

そう言う意味では西舞子を「舞子町」とでもした方がすっきりするように思うのです。

山陽電車の新線建設計画「神明急行線」では大正時代に現在の舞子中学付近に「西舞子駅」を設置する予定でした。
これは当時の新聞記事で確認済です。
(余談ですが、今の山陽バス車庫はこの鉄道の「多聞車庫」予定地であり、未成線の夢の後です。さらに車庫と併設して「多聞」、今のアグロガーデン裏手あたりに「高商前」駅が設けられる予定でした)

案外・・このあたりが「西舞子」と言う地名の発祥のもとかもしれません。

さて、さる方から、この記事に関して次のような一文をいただいています。
参考までに記してみます。

**********

山田→電鉄舞子(昭和10年8月1日)→西舞子(昭和12年)(当時は軌道法で停留
所)と変遷
して居ます。昭和11年4月号「汽車汽船旅行案内」にも"電鉄舞子”と書いてありま
す。

JR舞子駅は山陽鉄道時代に仮駅で「舞子公園」(明治29年7月1日)開業→「舞子」(明
治32年
4月1日)です。仮駅のまま明治39年12月1日国有化後に本駅になりました。

従ってJR舞子を改名するなら明治29年に戻って「舞子公園」??となると山陽電鉄と
カチ合うし
-----------
山陽鉄道時代に垂水が一時舞子に改名したりまた垂水に戻ったりのややこしい経過が
ありまし
た。
その他舞子ビラの前に当時としては立派な第4種踏み切り(無人)が在りましたが、
あそこが
「御用邸前」(臨時停留所)で大正時代に有栖川の宮家が絶家になって廃止されまし
た。

http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/

 

西舞子じゃない?

 投稿者:伸さん  投稿日:2009年 9月 7日(月)15時36分12秒
  現在の町名西舞子は本来舞子と言うべきだと一部の方が運動されているようです。
現在の西舞子になった経緯は、山陽電車の西舞子駅からだそうで?
ま〜実際に舞子と言う町名も無いし・・・・。町名が変われば、山陽西舞子駅も舞子駅になる?JR舞子駅は東舞子駅?・・・・・どうなるんだろう?ややこしいw
 

2段の丘

 投稿者:こう  投稿日:2009年 8月24日(月)17時54分25秒
  垂水区西部の地形で面白いのは、歌敷山・五色山・霞ヶ丘の海岸段丘の上にある丘と、その上、星陵台のさらに一段高くなった丘・・
この丘が2段になっていることですね。

どちらも大きく地形を変える工事をしているわけではなく、旧来の地形の上に町が構成されているのも妙味を感じます。

どちらかと言うと「山の手」の印象がある1段目の丘に対し、商店街があり、多くの人が行き交う2段目の丘・・

すごく不思議な気がします。

それと、朝霧駅と言えば駅前から団地になり、ニュータウンの駅と言う印象が強いですが、駅は海沿いにあり、海水浴場まで橋を渡るだけというのも・・これまた不思議な気もしています。

舞子駅前の観光ハウス・・おぼろげながら・・記憶に残っています。
あのころの舞子駅前は今よりは賑わっていたような気もします。

ちょうど、僕が国鉄鷹取工場に通っていたころ、舞子駅前の喫茶店でよく友人とお茶を飲んでいました。
夕方の、小さな商店街の賑わい・・
ふっと思い出すと懐かしい・・

http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/

 

丘の上の町

 投稿者:ezekiel  投稿日:2009年 8月19日(水)08時46分47秒
   舞子と垂水の間にある丘の上の町、今は五色山、霞ヶ丘、歌敷山の3つの住居表示があります。日向さんが開墾した丘ですが、今は住宅地です。

 この丘の上で商店があったりするスポットは・・・東の端の歌敷山バス停附近、昭和時代の中期までは此処に駅があって、駅前の商店だった処ですが、今はシャッターが閉まったままだったりして、住宅地の中に埋没しています。

  五色塚古墳の北、霞が丘交番のある交差点近辺は、商店が並びレストランもあります。古い市場も残っていますし、銭湯、理髪店が3軒と、場所的にも、丘の上の中心と言えるかもしれません。

 丘の上の町の中には信号機のある交差点が2箇所、1つは歌敷山中学校の東で、愛徳学園の下のバス道沿いで、その交差点の南、霞ヶ丘小学校の処にも信号機があります。(下の写真)ここは丘の上の町の中で、最も車の交通量が多いかもしれません。ここにパン屋さんがあったのですが今は歯医者さん。そして向かいには「たるみ坂薬局」があります。垂水坂は、商大筋から、この丘の上に上る坂のことだと思っているのですが、この薬局はたるみ坂を名乗っています。この南には霞ヶ丘駅があり、そのまま国道2号線に至ります。

 今、丘の上の町の中で一番賑わうのは・・・商大筋から、この丘の上に上った附近の交差点、ここにコンビニがあり、ミニコープがあり、垂水駅から徒歩で丘の上の町とを行き来する人が通るので、人通りも多く、買い物客の姿も多いです。

 ・・・でも、それ以外は閑静な住宅地が広がっています。新しいマンションも少なくありませんが、古くからの家も多く、この丘の上の町を散策しても見飽きないです。そして海峡の景色も愉しめますし・・・。

 丘の上の町には、山陽バスが循環して1時間に4本、丘の上の町は、何処かのバス停から5分ぐらいでほとんどの処に行けるのではないかと思います。ちなみに我が家は、バス停から2分ぐらいですが、垂水駅から歩いています。今の時期は、仕事帰りに丘を上って自宅に着くと心地良い汗が流れて、そのままシャワーを浴びてビールを飲んでしまいます。

 我が家の2階の窓からは、明石海峡大橋の本州側の主塔が、向かい家の隙間から眺められます。
 

以上は、新着順1番目から20番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 
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