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すさのお神社と六神社

 投稿者:カイト  投稿日:2008年 9月23日(火)22時49分58秒
編集済
   ezekielさんお久しぶりです。ezekielさんの言われるとおり、日ユ同祖論はアナロジーだと思います。日本史や世界史は、やはり正史というものを、まず基本として他の史観を検証していくべきだと思います。私も超古代史をかじったり、日ユ同祖論を調べたりしていますが、ユダヤ人には蒙古斑点はありませんね。このへんなんかもなぜかという検証が必要だと思います。史観には唯物史観だとか皇国史観だとか、いろいろありますが、西洋史の階級闘争論では、日本史には当てはまらない点もいくつもあります。しかし歴史にはロマンを感じさせますね。また超古代史には、与那国島の巨大な海底遺跡のように、大きな夢をいだかせてくれるのも事実です。しかしそれはそれとしてお互い勉強して研鑽してまいりましょう。

「すさのお神社」については、私は詳しくはわかりませんが、記録によると、明治41年5月15日、山田村字川西(現在の西舞子5丁目)に御鎮座されていた「すさのおの大神様」を、山田村字川東(現在西舞子1丁目)にある六神社に合祀たてまつられたと記録されています。

 なぜ合祀しなければならなくなったのか?というと、なぜかその記録が非常に少なく一般ではなかなかにして調べるのが困難になっているということです。しかし合祀された舞子六神社の神主なら、その経緯の詳細について、詳しくご存じだと思います。
 とにかく無くなった一つの説として、明治の近代化政策による鉄道の敷設に、鉄路が境内地を通らなければならなくなってしまったためだと理由をあげている人がいます。 また保安林だった森も戦後、長いあいだ保全されていたといわれますが、国鉄の複々線工事で転用され、しかも山田川の拡幅工事のため惜しくも消滅してしまったとのことです。

 ということで、私は「すさのお神社」は、六社大明神ではないのではないかと思います。今の段階では、天孫系の人々がこの地に訪れる以前、出雲系の人たちがこの地を開拓し海路を開いて各地と交易をし、その営みを守っていただくために海運の安全と、人々の暮らしの発展を祈って、祖先神である須左之男命様をお祀りし、敬神崇拝したのではないかと考えています。
 

すさのお神社と六神社

 投稿者:カイト  投稿日:2008年 9月23日(火)22時48分37秒
編集済
   ezekielさんお久しぶりです。ezekielさんの言われるとおり、日ユ同祖論はアナロジーだと思います。日本史や世界史は、やはり正史というものを、まず基本として他の史観を検証していくべきだと思います。私も超古代史をかじったり、日ユ同祖論を調べたりしていますが、ユダヤ人には蒙古斑点はありませんね。このへんなんかもなぜかという検証が必要だと思います。史観には唯物史観だとか皇国史観だとか、いろいろありますが、西洋史の階級闘争論では、日本史には当てはまらない点もいくつもあります。しかし歴史にはロマンを感じさせますね。また超古代史には、与那国島の巨大な海底遺跡のように、大きな夢をいだかせてくれるのも事実です。しかしそれはそれとしてお互い勉強して研鑽してまいりましょう。

「すさのお神社」については、私は詳しくはわかりませんが、記録によると、明治41年5月15日、山田村字川西(現在の西舞子5丁目)に御鎮座されていた「すさのおの大神様」を、山田村字川東(現在西舞子1丁目)にある六神社に合祀たてまつられたと記録されています。

 なぜ合祀しなければならなくなったのか?というと、なぜかその記録が非常に少なく一般ではなかなかにして調べるのが困難になっているということです。しかし合祀された舞子六神社の神主なら、その経緯の詳細について、詳しくご存じだと思います。
 とにかく無くなった一つの説として、明治の近代化政策による鉄道の敷設に、鉄路が境内地を通らなければならなくなってしまったためだと理由をあげている人がいます。 また保安林だった森も戦後、長いあいだ保全されていたといわれますが、国鉄の複々線工事で転用され、しかも山田川の拡幅工事のため惜しくも消滅してしまったとのことです。

 ということで、私は「すさのお神社」は、六社大明神ではないのではないかと思います。今の段階では、天孫系の人々がこの地に訪れる以前、出雲系の人たちがこの地を開拓し海路を開いて各地と交易をし、その営みを守っていただくために海運の安全と、人々の暮らしの発展を祈って、祖先神である須左之男命様をお祀りし、敬神崇拝したのではないかと考えています。
 

六神社

 投稿者:伸さん  投稿日:2008年 9月22日(月)08時49分8秒
編集済
  小学校は、祭りのために休みや半ドンになったりする事はないですね
祭りの手伝いをするまでは、こうさんのおしゃってる事を垂水の史跡の本でみて、そう思っていましたが、氏子の方から多聞六神社とは関係ないと言われましたが、どっちが本当なんでしょうか?
 

射撃場、秦河勝、岩屋神社

 投稿者:ezekiel  投稿日:2008年 9月21日(日)21時17分8秒
  カイトさん、

 奥の池の射撃場について、いろいろ情報をありがとう
ございます。

 秦河勝については、後から生まれた伝説のような話が
多いように思います。何故、播磨の坂越に秦河勝の墓が
あるのかについても諸説があって、千数百年前の出来事で
断定する根拠がこれから見つかることはないかもしれません。

 日ユ同祖論・・・、アナロジーとしての視点は面白いですが、
基本的には、類似性がある部分のみを抽出して描いた
ストーリーなのかなあ〜と捉えています。世界各地の文明や
文化は、互いに影響を受けている部分が少なくはないので
思わぬ類似性の痕跡は確かに面白く、そこから悠久のロマンを
感じますが・・・。



 舞子六神社ですが、創建当初は六社大明神と呼ばれていた
ようです。江戸期の早い時期に岩屋神社(明石・材木町)
から御祭神を勧請したようです。明治期になって六社神社、
そして六神社と名前が変わったようです。
 その明石・材木町の岩屋神社も、古代に淡路島・岩屋の
石屋神社より勧請して創建されたようです。オシヤカタ舟が、
その名残のようですね。

 山田村に広い境内をもつ大きな社があったとのことですが、
それは江戸期の六社大明神のことではないでしょうか?

写真は、明石・材木町の岩屋神社前のバス停と、その向こうに
見えるのが岩屋神社です。
 

舞子六神社と多聞六神社

 投稿者:こう  投稿日:2008年 9月21日(日)05時50分0秒
  縁起によると元々多聞寺の守護神として祀られていた多聞十二神を山田村に半分分嗣したのが舞子六神社だったようです。
これは舞子六神社の縁起にははっきり書かれていますが、多聞六神社のほうには「半分をよそへ持っていかれた」とされていて、舞子と多聞の微妙な力関係を知ることが出来ます。

歴史的に見れば良質な漁場を持ち、外に開かれた舞子と、かつては巨大な寺域を有した多聞寺のお膝元だった多聞と・・この二つの村の関係はなかなか興味深いです。
山田川の水利などの問題もあったかもしれません。

10月12日前後の秋祭りは垂水の海神社の祭りとも重なり、垂水周辺では大規模な交通規制も行われます。
現代の重要な移動手段である自動車を止めて、ふとん太鼓が町を闊歩する有様はある意味で痛快でもありますね。

山田川ですが、確かに都市型河川になってしまっていますが、水質は非常によくなっています。
カルガモの親子が地域の人たちに愛されながら泳ぐという・・そんな楽しい場面もありますよ。
 

舞子六神社の大祭

 投稿者:カイト  投稿日:2008年 9月20日(土)00時19分32秒
編集済
   多種多様なお役目をもたれた大神様をお祀りされる六神社、世界の平和と国家国民の安寧を願って日々天地宇宙の恵みをくださる舞子の御守護尊神様に対し、心から感謝申し上げたてまつります。
 私たち家族が舞子に移り住んだ昭和38年から舞子を去るまでのあいだ、神様は知らずしらずのうちに大きなお慈悲を垂れたまわって、ここまで成長させていただいたのだと思います。
 10月11日の宵宮、引き続き12日の本宮には、盛大なお祭りになるよう六神社の大祭の成功をお祈り申し上げます。

 清らかな舞子六神社の拝殿
 

六神社のお祭り

 投稿者:3000  投稿日:2008年 9月18日(木)13時22分0秒
  戦時中の娯楽が殆ど無い時代にお祭りは最大の楽しみでした。
今年は小学校休日が祭礼日ですが、当時は「六神社」のお祭りは休みに
なり、垂水の海神社の日はお昼まででした。
今でもそうなんでしょうか?
 

秋祭り

 投稿者:伸さん  投稿日:2008年 9月16日(火)08時35分5秒
  六神社の秋の大祭は、10月11日宵宮、12日が本宮です。
海神社の大祭と重なるので、2号線を通る方は、大渋滞が起きそうですので、
迂回した方がよさそうです。
 

都賀川と同じ構造??

 投稿者:3000  投稿日:2008年 9月15日(月)08時31分6秒
  これは恐いですね。護岸と一段目のコンクリート河床は良いとして、水が流れる部分
にまで凸凹のコンクリート板を敷き詰めては----
大雨の時に水の遠心力が護岸に掛かるのを防止する為でしょうが、川床の「土」の
部分が少ないのはいけませんね。私の近くの農業用水路が同じ構造で、一度集中豪雨
時に下水が逆流して床下浸水が起こりました。水利組合が堰の開放を怠ったのも原因
でしたが----
 

山田川の治水

 投稿者:カイト  投稿日:2008年 9月14日(日)23時17分26秒
編集済
   3000さんご返事おくれました。記憶をたどっていただいてありがとうございます。昔のことはなかなかに詳しい記録がないため、詳細がわからないこともたくさんありますね。しかし一つひとつ解明できればと思っています。またご質問させていただくと思いますが、その節はよろしくお願い申し上げます。

 それからやはり治水については、護岸をコンクリートで固めるだけではなく、地域全体の保水力とういものを考えたうえで開発しなければならないと思います。山丘に森林があることは保水能力があり、豪雨になったとしても、よほどのことがないかぎり一度に雨水が川に流れ込んで激流になったりしません。森林が繁茂していれば、いったん山にしみ込んだ水が順次地下水となって川に流れ出していくため、堤防の決壊など発生する確率が少なくなるからです。
 しかも土が水にふれることによって水質を良くしていきます。水は善も悪も保つ力がありますが、土はすぐれた浄化作用をもっているからです。だからこそ昔の川は、植物が育ち、さらにその植物の根っこによって、汚れたものが養分として吸い取られ、水はさらに清められていました。そこに魚や水性動物の繁殖がうながされて、川を豊かにして水をたたえた流れとなっていたのだと思います。
 だからこそ治水は人工治水にするのではなく、自然にマッチした治水計画を立てて、自然を一刻も早く取り戻すことが、舞子をさらに豊かにしていくことになっていくのでしょう。

 細道公園横の橋から見た山田川(上河橋)
 

山田川河口の水量

 投稿者:3000  投稿日:2008年 9月14日(日)17時11分39秒
編集済
  私が知っていた昭和20年ぐらいでも写真と余り変わらない状態でした。特に
夏場は同じ様な状態でしたが----
開発それもマンションばかりで土地の保水力も無くなり、局地豪雨があると先だって
の都賀川水難事故みたいな事になります。目先の利益の為に自然破壊を平気でやる
マンション屋の跋扈はまさに「日本破壊」です。昭和13年の「阪神大水害」の教訓を
忘れている神戸市や兵庫県にもゾッツとします。
 

山田川の河口

 投稿者:カイト  投稿日:2008年 9月13日(土)22時03分39秒
編集済
  奈良の鹿野さん「益田の岩船」の所在地は橿原市だったんですね。大変失礼しました。安宿もアスカというのですか、韓国にもありますね。また広島県にも安宿という地名はアスカと呼びます。そこには古代の製鉄所の遺構が発見された地でもあります。インドのアスカには錆びない古鉄柱があって、特殊な鉄の鋳造にもすぐれたものがあったと聞いています。日本にも「ひいろ金」といってまぶしく輝く絶対に錆びない特殊な金属がありました。応神天皇、仁徳天皇に仕えられた武内宿禰大臣の子孫平群大臣が竹内文献として記録に残されておられます。

 まあそれはともかくとして、私は舞子の地が大好きなんです。この掲示板もこうさんの大きな受け止める器によって、私のような者でも削除されず掲載してくださっています。本当にありがたく思います。
 舞子は瀬戸内海に面し、気候も温暖で住みやすく、すぐれた景勝地でもあります。
 掲載写真は山田川の河口付近です。昭和61年ごろの写真ですが、川の水は明石海峡へとたえず流れていました。しかし現在は、上流の丘陵地帯がすべて開発され、森林減少のため保水力がなくなり、水量は激減してしまい、河口は砂でふさがってしまっています。昔は水利に利用されていた山田川ですが、現在はその役割を果たすことができなくなり、排水利用の川となってしまっています。
 こうみると森林というものは人類にとってとても大切なものです。人間水がなくなれば、生きていくことはできません。現在、都市化をすべて無くすことは無謀ですが、その都市の中にも空間利用して樹木を植樹し、森の中に都市があるというデザイン構想を考えることは、未来のためにも、しかも地球を守るためにも必要なことではないでしょうか。
奈良の鹿野さん今後ともよろしくお願いいたします。
 

Re:カイトさま

 投稿者:奈良の鹿野  投稿日:2008年 9月12日(金)17時37分57秒
  はじめまして。奈良の鹿野(時に「垂水の鹿野」としても出没します)です。

リプライをいただきありがとうございます。
お写真は橿原市の「益田の岩船」ですね。このあたりは飛鳥時代には中央政権より少し外れた場所に位置しています。
最寄駅は近鉄南大阪,吉野線「岡寺」で、西方の住宅地を横断した先の高台、その山頂にあります。
垂水区内で言うと、東西反転しますが、垂水警察署を基点に、多門台団地の中を歩いて垂水健康公園をめざす
道程をイメージしていただければ、迷うことも少なくたどり着けるとおもいます。

>巨石
益田の岩船は、空海の時代の石碑跡という説もあるそうです。
石質は、中央構造線以北の数十kmにおよぶ地質帯で東海〜九州まで似た性質の花崗岩を産しますので、
高砂の石もそれによるものだとおもいます。
>飛鳥
これも諸説入り乱れているようですね。「安宿」から変化したという説が無難なんでしょうか?
と、まあ、あまりロマンのある解釈でないですが、独自のネタをあいにく持ち合わせておりませんのでお許しください。

>武烈天皇
河内王権ラストの王ということで、記紀にはあることないことかなり悪者に描かれていますが、後の継体王につなぐ
ために計らずも仕立てられたフシを感じています。継体王権はそれ以前とは別の嫡流とする説が一般に有力の
ようです。

武烈−継体間で王権の交換があった(らしい)のと同様に、仲哀−応神間でも両皇子の叛乱により歴史が動いた
可能性はきわめて大きいとおもいます。淡路−播磨−大和におよぶ必勝の防衛線にもかかわらず、正当な皇位
継承者たる両皇子に欠けていたのは、赤い猪=一般民衆からの支持ではなかったかとおもっています。
加えて「夢野の鹿」の逸話は、仲哀王の熊襲征伐中における変死の投影ではないか?とか・・・・・。

記紀や各地の風土記からは、ロマンとか妄想に加えて、ある種の「教訓」とか「スピリット」を各人生にもたらしてくれて
いるようにおもいます。

http://hayatori21.cocolog-nifty.com/blog/cat6830012/index.html

 

巨石

 投稿者:カイト  投稿日:2008年 9月12日(金)00時39分37秒
編集済
   奈良の鹿野さんこんばんは、はじめまして私はカイトと申します。奈良は日本人の故郷だと思っています。8年も前になりますが、武烈天皇、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせわかさざきのみこと)様御鎮座地を調査に足を運びました。
 はじめに三輪大社に参り、桜井の地に足をんで泊瀬列城宮(はつせのなみき)の宮に参拝し、その足で明日香へはしりました。夕刻なんとか小泊瀬稚雀神社にたどりつきました。(天武天皇陵のすぐ近くにあります)
 その奈良の旅で故郷の感覚を味あう不思議な思いが私の魂を響かせました。とくに飛鳥では、なんともいえない懐かしさのような感情が泉のごとくわき出てきたことは忘れられません。

 突然ですが、お尋ねしてもいいですか、明日香には貝吹山や船着山というのがあるのですか、これは荒唐無稽かもしれませんが、UFO研究者によると超古代(前文明)の天の浮き船(空飛ぶ円盤)の発着場だったという説を聞きました。実際、明日香の字源は「飛鳥」で、その「飛鳥」をなぜ「あすか」というかは解明されていません。しかし、インドには同じ発音のアスカがあってその地には超古代にあったという空を飛ぶ乗り物伝説があります。その山は明日香のどのへんにあるのでしょう。ご存じでしたら教えてください。

 それから高砂の石の宝殿というところに巨石を豆腐切りにした御神体をお祀りする生石(おいしこ)神社があります。この神社周辺には石切り場がたくさんあることで有名です。
 また武烈天皇がお祀りされている小泊瀬稚雀神社周辺(明日香野口村)は、当時、石切り場だったと訪ね聞きました。そこで明日香にある益田大船山にすえつけられている500トンもあるという人工的に造られた巨石が、播磨の高砂にある石の宝殿と関係があるという話を書物で読んだことがあります。
 すると石切り場ということで明日香と播磨とがつながってくるのですね。しかも古代人が500トンからある巨石をどんな工法で300メートル以上の山に設置したのか謎としかいいようがありません。ある学者が石の性質を調べたところ、奇妙にも高砂の石質に相似しているという、アッと驚く説を出しています。
 とすれば高砂から明日香まで運んだという、常識では考えられないとんでもない話になります。このように別な角度からでも奈良と播磨明石周辺とは関係があるのですね。
 そんな変なことを考えているのがカイトの毎日です。

 明日香の巨石
 

六神社の鳥居

 投稿者:カイト  投稿日:2008年 9月11日(木)23時21分53秒
編集済
   舞子の守り神である舞子六神社の鳥居。この場所は賑やかな2国筋とはちがって閑静な漁村、物静かな気風の中に潮の香りと渚の音が耳を潤し、淡路島が見える明石海峡は山田の浦にふさわしい絶景の場所です。
 舞子六神社は、ひっそりと舞子の山田村を守られて、明石海峡の海運の安全と人々の暮らしに必要な漁を守られて建っているよに思います。

御祭神  伊邪那岐大神様
     伊邪那美大神様
     天照大御神様
     すさのおの大神様
     月夜見大神様
     蛭子大神様

 物静かに建つ舞子六神社の鳥居
 

はじめまして

 投稿者:奈良の鹿野  投稿日:2008年 9月11日(木)17時42分15秒
  みなさん、はじめまして。
みなさんの参考になるお話をいつも楽しく拝見しております。

さて、5年ほど前より、わたくし垂水区にご縁があって奈良と垂水の間を行き来する生活が続いています。
5年前、垂水の市街地をはじめて通行したとき、「この道はいつか来たことがあるんでは?」という感覚を
覚えたことがあります。何がしか、奈良の風情に通じる事柄がこの町に息づいているようにおもいます。

遠く古代、かご坂皇子、忍熊皇子がこの地に陣取った時代より、東播磨−大和間には強力なパイプが
存在したのだろうと、ここに来て改めて実感します。

ことによると「速鳥」の逸話にある「朝には(仲哀王の屯倉のある)淡路を夕には大和島根を陰とした」楠の木は、
クヌギの木とともに刈られた「かご坂王」ではないのか?と妄想したりしています。

はじめての書込みにもかかわらず脈絡のない話で恐縮です、今後ともよろしくお願いします。

http://hayatori21.cocolog-nifty.com/blog/cat6830012/index.html

 

多聞を遠望して

 投稿者:カイト  投稿日:2008年 9月10日(水)21時59分54秒
  昭和43年3月に舞子墓園から撮った写真です。遠くに八代高校の校舎が見えています。周辺は、開拓が進みはじめていて山肌が見えています。この写真のように、昔は丘陵地帯に緑が満ちあふれていました。私にとっては懐かしい写真です。  

町名

 投稿者:3000  投稿日:2008年 9月 7日(日)08時45分46秒
  私のうろ覚えが「通称」だったのか「正式町名」だったのか?記憶があいまいです。
山田川を境に西側が「川西」なれば明確に覚えていますが、「川東」は山田川以東
だったのか、お地蔵さんの西の、山陽電鉄線路が勾配を殆ど下り終えて”L”(こうサン
が説明してくださるでしょう)になる直前にあった「踏み切り」東側の「ドブ川」
から以東だったのか?は記憶があいまいです。当時はドブ川以東を「川東」と言っていた
??みたいで----
六神社関係は今の神主さんが相当研究されているみたいです。神社近くの旧街道に「郵」
みたいな字が見えますが28年はまだ郵便局が元の所だったのですか?
 

字川東と川西

 投稿者:カイト  投稿日:2008年 9月 7日(日)00時51分15秒
編集済
   3000さん、記憶をたどっていただいてありがとうございます。昭和28年に作られた字川東と字川西の手書きの地図を写真に撮りましたので掲載します。見えにくいかもわかりませんが、山田川の河口を中心に東西に別れて、字川西と川東という地名がつけられています。

 最近、知ったのですが舞子には六神社だけではなく、昔、字川西に「すさのお神社」という広い境内をもつ大きな社があって六神社に合祀されたのですね。この地に御鎮座された「すさのお神社」は、またの名を天王神社とも呼んでいたそうです。その天王神社とは牛頭天王のことで、祇園精舎の鐘の御守護神ともいわれているインドの神様でもあります。その神様は疫病を癒し、病害虫を防ぎ、農耕を発展させ人民を豊かにさせる神様でもあらせられます。本籍地は京都八坂神社です。
 こちらの神社のほうが六神社よりはるかに古い時代より祀られていたそうです。とすれば、舞子の地は、大歳神社をお祀りしていたことをも考えると、まず縄文人がいて、その次に出雲系の人々が入植して、さらに天孫系の人たちが住み着いたのではないかと考えられます。

 舞子(山田村)は、地形から考えると基本的に農耕より海運が発展していたのではないかと思われます。古代の矢尻は黒曜石を使用していました。その出雲製の黒曜石がバイカル湖周辺からも出土するということです。とすれば出雲の国引き神話から導きだせることは、出雲と大陸とは交易を営んでいて、日本海を往来していたことを裏付けるものではないかと考えられることです。すなわち出雲系の人たちは農耕だけではなく海運も行っていたことになります。とすると出雲系の人たちが舞子に入植したとしたら、淡路をとおして四国の物資やあるいは難波の生産品など、瀬戸内海との流通ネットワークを構築して、経済活動を行っていたことが考えられます。その人たちがその海運の安全と発展をお祈りして、出雲の祖先神である須佐之男命をお祀りされたのではないでしょうか。
 国ゆずりがあって天孫民族が列島を支配するようになったあとにも、出雲の文化というものは、人民のあいだに末永く残っていたのではないかと思います。その証拠に現在に至るも列島全体に、出雲系の神社が数多く残ってお祀りされているからです。

   西舞子南部の地図
 

町名

 投稿者:3000  投稿日:2008年 9月 5日(金)11時58分19秒
  私もうろ覚えですが、今の郵便局(昔の舞子国民学校跡)の辺りが「仲ノ町」、
それから山側の「ふじ」とかの屋号の文房具屋の辺りから山側が「戎ノ町」と
呼んでいたみたいな記憶があります。六神社前の旧街道とは90度異なりますが------
字川東とは地蔵さんから少し西舞子停留所よりにあった踏切り近くのドブ川から東
ですか?旧金作(かなつくり)の付近??
戦前秋山染工場の分工場があって戦時中城東工機になっていた辺り??(JRより山側)
北ノ町はもっと舞子坂よりの今の舞子小学校あたりだったかとこれもうろ覚えです。
 

以上は、新着順161番目から180番目までの記事です。 5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  |  《前のページ |  次のページ》 
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